中国では高貴な色
古代中国の春秋時代から戦国時代にかけて確立されたといわれる五行思想では、黄は「木、火、土、金、水」の真ん中の土にたとえられています。黄という文字は「光」と「田」に分解されるから、光り輝く田圃、すなわち土の色ということになります。
こうした土あるいは黄を中央とする思想がもとになって、中国最古の王朝である夏の以前に、国の源ともいう時代があって、そこに三皇五帝という、八人の聖人伝説がつくられました。その五帝のなかでも、第一と崇められたのが黄帝です。乱を平定して天子となり、衣服、舟車、家屋、弓矢など生活に必要なもの、文字音律の暦なども考案し、薬草も発見して医術を確立するなど、人民の文明生活におおいに寄与したといわれています。黄帝は神話的伝説の王としてまつりあげられたのです。したがって戦国時代までは五行の中央の黄は天子の色であり、その色がもっとも高貴な色として尊ばれたと考えてよいでしょう。
日本の黄色の歴史
日本において、聖徳太子が冠位十二階を定めたのは、中国の隋の制度を取り入れたもので、この五行思想の「青、赤、黄、白、黒」に、最上の紫を加えて六段階、それに濃淡をつけて十二の冠位とし。濃黄、薄黄はそれぞれ七位、人位という位階になっていた。
ところが、大化三年(647)の改正では、黄色は冠位から消えてしまっています。そればかりか、『日本書紀』によれば持統天皇七年(693)の正月に、「是の日に、詔(みことのり)して天下(あめのした)の百姓(おほみたから)をして、黄色(きそめ)の衣(きぬ)を服(き)しむ」とあり、八世紀前半の『養老律令』「衣服令」には「制服、無位は皆皀の縵の頭巾。黄の袍」とあります。
こうしてみると、黄色系が尊ばれなくなったともいえなくはないですが、七、八世紀の遺品を見ると、一概にそう判断するのは早計であることが次の例を見てもわかると思います。まず、七世紀末から八世紀の初頭につくられたといわれる高松塚古墳の女人像と男子像はともに黄の衣裳を着用した姿で描かれているので、必ずしも衣服令のとおりであったとは思えないのです。
さらに現在まで伝えられている染織品では、法隆寺にペルシャ方面から伝来した葡萄唐草の文様をもとに、日本的な様式であらわされた褥(じょく)があり、それは黄地葡萄唐草文錦と命名されています。正倉院にも入子菱文綾、亀甲亀花文黄綾などの裂が収蔵されていて、いずれも1200年あまりを経て、今も美しい黄色をたたえています。
仏教の伝来によって、斑鳩の法隆寺をはじめとして、南都の七大寺ではおびただしい数の経巻がつくられていきました。紙を漉(す)く技術が中国で発明され、それが朝鮮半島を経て日本へもたらされ、日本人の手の器用さとあいまって、この当時飛躍的な発展をみました。そのために、経典の写経には手漉和紙が用いられましたが、それはまた、たんなる白紙ではなく、その多くは黄檗(きはだ)で染められました。黄紙、黄染紙、黄麻紙などの表記が『正倉院文書』に見られ、その枚数は驚くべきことに、黄紙の場合200万枚を超える数字が記されています。事実、今日までも奈良薬師寺に伝えられる「魚養経」(大般若経)、法隆寺百万塔陀に納められていた「陀羅尼経」、そして正倉院にはおびただしい数の黄色のお経が伝えられることを見ても明らかです。
ほとんどの和紙が黄檗で染められたのは、黄檗には防虫効果があるためで、あわせて黄色という色が墨の色の美しさをより深める点にあるのでしょう。
平安時代になると、黄檗色、刈安(かりやす)色といった直接的な色名あるいは染料となる植物の名前ではなく、季節それぞれに咲く美しい花の名前になぞらえた黄色が登場してきます。春の山吹、秋の女郎花(おみなえし)、銀杏などの葉の色が移ろう黄朽葉(きくちば)などが、季節の彩りを尊ぶ王朝の女人たちを装う襲(かさね)の色としてあらわされています。
沖縄では尚王朝が確立してからは、中国明国の影響を受けたために、王は黄色の袍を着ることになり、黄が尊ばれて一般の人々には着用が許されない禁色とされました。 |